死別の悲しみを比べてしまう40代女性の相談事例|自助グループで「この場にいていいのか」と感じたとき

父との死別後、悲しみを抱えたまま過ごしていると、誰かに話したい気持ちと、うまく話せるだろうかという不安が同時に出てくることがあります。
同じような経験をした人とつながりたい。
自分の気持ちを、分かってもらえる場所に行きたい。
そう思って参加した場で、ほかの方の死別経験を聴いたとき、かえって自分の悲しみが小さく感じられてしまうこともあります。
今回のご相談者様は、関東にお住まいの40代女性Qさんです。
相談方法は対面で、担当は田中はるです。
相談テーマは、死別の悲しみ比べでした。
Qさんは、父との死別後にグリーフを抱え、自助グループの会に参加されました。
そこでは、死別経験のある初めて会う方々が、それぞれの経験を語っていました。
本当は、同じような経験をした人とつながりたい。
自分の死別経験も尊重されたい。
そんな思いがあった一方で、自分より壮絶な死別経験をされた方々のお話を聴いたとき、Qさんは「自分がこの場にいていいのだろうか」と感じるようになっていきました。
悲しみを話すために参加したはずなのに、ほかの方の話を聴くほど、自分の死別経験がとても小さく思えてしまう。
自分のことを話してもいいのか分からなくなる。
そのもやもやから、Qさんは発言が消極的になってしまっていました。
死別の悲しみは、本来、誰かと比べて大きい小さいを決めるものではありません。
けれど、複数の人が集まる場では、どうしてもほかの人の経験が耳に入り、自分の悲しみを後回しにしてしまうことがあります。
私はまず、Qさんが抱えていたもやもやを、急いで整理しようとはせず、そのまま吐き出していただく時間を大切にしました。
「この場にいていいのだろうか」
「自分の死別経験は小さいのではないか」
「でも、本当は自分の悲しみも尊重されたい」
その一つひとつを、否定せず、比べず、Qさんのペースに合わせてお聴きしていきました。
田中はるは、安心できる雰囲気でゆっくり丁寧に聴くこと、話がまとまっていなくても大丈夫なこと、否定せず穏やかに受け止めることを大切にしているよりびとです。
今回の相談事例では、自助グループで感じた「悲しみを比べてしまう苦しさ」と、自分の死別経験を大切にしていいという気づきについてお話ししていきます。


投稿者プロフィール

- よりびと
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■ 対応しやすい時間帯:① 10:00〜14:00|朝昼タイム ② 14:00〜18:00|午後タイム
※土日祝対応(枠が埋まりやすいため、事前予約をお勧めします)
※シフトは2週間単位で掲載します、詳しくは待機カレンダーを確認ください。
■ 年齢:40代
■ キャッチコピー:安心できる雰囲気でゆっくり丁寧にお聴きします。
■ 得意なテーマ
- ペットロス・グリーフケア(死別や離別による悲嘆反応)
- 身近な人間関係の悩み(親子・配偶者やパートナー・女性同士など)
- とにかく話を聴いてほしいとき
■ 聴き方・スタイル
- お相手のペースに合わせてゆっくり聴きます
- 話がまとまっていなくても大丈夫
- 否定せず、穏やかに受け止めます
- 沈黙も気まずくしないスタイルです
■ 経験
- 自分自身のペットロスとグリーフの経験によりグリーフケアを学び、対象別自助グループ傾聴ボランティアに参加(ペット・配偶者やパートナー・子ども・親・きょうだいを亡くされた方々が参加する会)
- 死別経験(妊娠後期流産・義父・義母・父・愛犬)
- 病気で介護状態になった父の身元引受人の経験
- 結婚生活20年以上
- 犬の飼育経験
- 子育て経験
- 両親の離婚や母の再婚により複雑な家庭環境で過ごした経験
- 資格・認定:認定傾聴カウンセラー/グリーフケア心理カウンセラー/ペットロス専門士/グリーフ専門士/グリーフケア・アドバイザー/心のサポーター/かかわり愛サポーター
■ 大切にしていること
- どんなお話も否定しません
- 話したくないことは無理に聞きません
- 気持ちが整理されていなくてもそのままで大丈夫
- 泣いても沈黙してもOK
■ 人柄・ユニークポイント
- 好きなもの:犬/お花/映画やドラマ鑑賞
- よく言われる性格:「やさしい」「落ち着いている」「話しやすい」「頼もしい」
- ちょっとしたこだわり:自分時間を大切にしてコーピングを増やすこと
- 聴き手としての密かな強み:「お相手の気持ちを受け止め共感すること」
■ メッセージ
今おひとりで抱えているつらいお気持ちや社会では理解されにくいことなど、どのようなお話でも大丈夫です。うまく言葉にならなくても泣いてしまっても問題ありません。あなたのペースで、安心してお話しくださいね。
目次
- ○ 父との死別後、自助グループで他の人の悲しみと比べてしまった
- ・同じ死別経験をした人とつながりたいと思った
- ・他の人の壮絶な経験を聴いて、自分の悲しみが小さく感じられた
- ・悲しみを話す場所で、かえって話しにくくなることもある
- ○ 「自分の悲しみは小さいのでは」と感じ、発言できなくなった
- ・「この場にいていいのだろうか」と感じてしまった
- ・自分より壮絶な経験を聴くほど、話しにくくなっていった
- ・話したい気持ちと、話してはいけない気がする気持ちがぶつかっていた
- ○ 死別の悲しみは比べるものではなく、それぞれ大切にしていい
- ・誰かの悲しみが深いからといって、自分の悲しみが消えるわけではない
- ・「比べてしまう自分」を責めなくてもいい
- ・自分の死別経験を大切にしていいと気づいていく
- ○ 同じ経験を探し続けるより、まず自分の悲しみを安心して話せる場所へ
- ・自助グループで癒されることもあれば、苦しくなることもある
- ・比べることのない個別の時間で、悲しみを言葉にしていく
- ・自分の悲しみを尊重することが、次のつながりにつながっていく
- ○ 死別の悲しみは、比べずに話して大丈夫です
父との死別後、自助グループで他の人の悲しみと比べてしまった
父との死別後、悲しみを抱えたまま過ごしていると、「同じような経験をした人と話してみたい」と思うことがあります。
家族や友人に話せないわけではなくても、死別を経験した人にしか分からない感覚があるように思えて、同じ悲しみを知っている人のいる場所に行ってみたくなることがあります。
Qさんも、父との死別後にグリーフを抱え、自助グループの会に参加されました。
そこには、死別経験のある初めて会う方々が集まり、それぞれの経験を語っていました。
Qさんの中には、自分の死別経験も大切に扱われたい、同じような経験をした人とつながりたいという思いがありました。
けれど実際にその場で、他の方の死別経験を聴いているうちに、Qさんの心には別の苦しさが生まれていきました。
自分よりも壮絶な死別経験をされた方のお話を聴いたとき、Qさんは自分の死別経験がとても小さく感じられたそうです。
「自分がこの場にいていいのだろうか」
そんな思いが出てきて、発言も消極的になっていきました。
本当は、悲しみを話したくて参加した場所。
本当は、誰かとつながりたくて足を運んだ場所。
それなのに、他の人の話を聴けば聴くほど、自分の悲しみを出してはいけないように感じてしまう。
これは、とてもつらいことだと思います。
悲しみは、比べるためにあるものではありません。
けれど、人が集まる場では、どうしても他の人の経験が耳に入り、自分の気持ちを後回しにしてしまうことがあります。
私はまず、Qさんがその場で感じたもやもやや戸惑いを、急いで結論づけようとはせず、そのまま言葉にしていただく時間を大切にしました。
「この場にいていいのだろうか」と感じたこと。
「自分の悲しみは小さいのでは」と思ってしまったこと。
でも本当は、自分の死別経験も尊重されたいと思っていたこと。
その一つひとつを、比べず、否定せず、Qさんのペースに合わせてお聴きしていきました。
同じ死別経験をした人とつながりたいと思った
大切な人を亡くしたあと、周りの人が普段通りに生活しているように見えると、自分だけが別の場所に取り残されたように感じることがあります。
もちろん、周りの人も気遣ってくれるかもしれません。
「大丈夫?」と声をかけてくれる人もいるかもしれません。
それでも、死別を経験した直後や、悲しみが長く続いている時期には、言葉では説明しきれない孤独感が残ることがあります。
Qさんが自助グループに参加された背景にも、同じような思いがあったのだと思います。
父との死別後に抱えていたグリーフ。
日常生活の中ではなかなか話しきれない気持ち。
そして、自分と同じように大切な人を亡くした人なら、この気持ちを分かってくれるのではないかという期待。
「同じような経験をした人とつながりたい」という思いは、とても自然なものです。
悲しみを抱えているとき、人は必ずしも正しい答えを求めているわけではありません。
何かを解決してほしいというよりも、ただ「分かるよ」と感じられる場所がほしいことがあります。
自分の話を途中で遮られずに聴いてもらえること。
涙が出ても、そのままでいられること。
うまく説明できなくても、急かされないこと。
そういう場所があるだけで、少し息がしやすくなることがあります。
ただ、同じ「死別経験」といっても、その内容は一人ひとり違います。
亡くなった方との関係性も違えば、亡くなり方も、亡くなった時期も、その後の生活の変化も違います。
だからこそ、「同じような経験をした人とつながりたい」と思って参加した場所であっても、必ずしも自分と近い経験の人に出会えるとは限りません。
Qさんも、まさにその難しさに直面されていました。
同じ死別経験を持つ人たちの場であっても、全員が同じ悲しみを抱えているわけではない。
だからこそ、安心を求めて参加した場で、かえって自分の悲しみの置き場所が分からなくなってしまったのだと思います。
他の人の壮絶な経験を聴いて、自分の悲しみが小さく感じられた
Qさんが特につらく感じたのは、他の方の死別経験を聴いたときに、自分の経験と比べてしまったことでした。
自助グループでは、それぞれの方がご自身の死別について語ります。
そこには、言葉にするだけでも胸が苦しくなるような経験が含まれていることもあります。
Qさんは、自分よりも壮絶な死別経験をされた方々のお話を聴く中で、自分の死別経験がとても小さく感じられてしまいました。
「私なんかが話していいのだろうか」
「もっとつらい経験をしている人がいるのに、自分の悲しみを出していいのだろうか」
「この場にいていいのだろうか」
そう感じてしまうと、言葉は自然と出にくくなります。
本当は話したかったはずなのに、口を開くことにためらいが出てくる。
自分の番が来ても、短く済ませてしまう。
誰かの話を聴きながら、自分の悲しみを心の奥へ引っ込めてしまう。
Qさんの発言が消極的になってしまった背景には、このような気持ちがあったのだと思います。
でも、ここで大切なのは、Qさんが冷たい人だったから比べてしまったわけではないということです。
悲しみの場で比べてしまう自分に、戸惑ったり、申し訳なさを感じたりする方もいます。
けれど、人の話を聴いたときに、自分の経験と照らし合わせてしまうのは、心の自然な動きでもあります。
「私はここにいていいのか」
「私の悲しみは話すほどのものなのか」
そう考えてしまうのは、自分の悲しみを軽く扱いたいからではなく、むしろその場を大切にしたい気持ちがあるからこそかもしれません。
ただ、その気遣いが強くなりすぎると、自分の悲しみを置き去りにしてしまいます。
誰かの悲しみが大きいからといって、自分の悲しみが消えるわけではありません。
誰かの経験が壮絶だからといって、Qさんがお父様を亡くした悲しみが小さくなるわけでもありません。
私は、Qさんが感じた「自分の悲しみが小さく思えてしまう」という感覚を否定せずにお聴きしながら、その奥にある「本当は自分の死別経験も尊重されたい」という思いを大切に扱っていきました。
悲しみを話す場所で、かえって話しにくくなることもある
悲しみを話すために行った場所で、かえって話しにくくなる。
これは一見すると矛盾しているようですが、実際には起こりうることだと思います。
自助グループのように複数の人が集まる場には、安心できる面もあります。
自分だけではないと感じられること。
似た体験をした人の言葉に救われること。
誰にも言えなかった思いを、少しだけ外に出せること。
そうした力がある一方で、集まる人の経験がそれぞれ違うからこそ、相互に尊重し合うことが難しくなる場面もあります。
Qさんの場合も、自助グループに集まる人たちを自分で選ぶことはできませんでした。
その日にどんな方が来るのか。
どんな死別経験を語るのか。
自分と近い経験の方がいるのか。
それは、Qさんがコントロールできることではありません。
同じような死別経験をした人に出会えたときには、深く癒しを感じることもあると思います。
「ああ、分かってもらえた」
「私だけではなかった」
そう感じられる瞬間は、大きな支えになります。
けれど、違う経験をされた方々が集まる場では、どうしても自分の悲しみをどのくらい話していいのか分からなくなることがあります。
相手の話が重く感じられたとき、自分の話を出すのが申し訳なくなる。
自分よりも長く苦しんでいる人がいると、自分はまだましなのではないかと思ってしまう。
その結果、本当は話したかった気持ちが、胸の中に残ったままになってしまうことがあります。
私は、Qさんが感じた話しにくさを、「せっかく参加したのにもったいない」とは受け止めませんでした。
その場に行ってみたからこそ分かったことがあります。
Qさんには、同じ経験をした人とつながりたい思いがあること。
自分の死別経験も尊重されたい思いがあること。
そして、複数の人がいる場では、自分の悲しみを出しにくくなることがあること。
それらは、どれもQさんにとって大切な気づきだったと思います。
悲しみを話す場所は、一つだけではありません。
大勢の中で話すことが合う人もいれば、まずは一対一で、自分の気持ちを比べずに話す方が安心できる人もいます。
Qさんにとって必要だったのは、「自分の悲しみを出してもいい」と感じられる場所を、あらためて探していくことだったのだと思います。
「自分の悲しみは小さいのでは」と感じ、発言できなくなった
Qさんは、父との死別後にグリーフを抱え、自助グループの会に参加されました。
そこには、死別経験のある初めて会う方々が集まっていて、それぞれが自分の死別経験を語る場になっていました。
Qさんにとって、その場に参加した理由は、とても自然なものだったと思います。
同じような経験をした人とつながりたい。
自分の死別経験も、誰かに分かってもらいたい。
父を亡くした悲しみを、自分ひとりの中だけにしまい続けるのではなく、安心して話せる場所がほしかったのだと思います。
けれど、実際にその場で他の方のお話を聴く中で、Qさんの中には思っていたものとは違う感情が出てきました。
自分よりも壮絶な死別経験をされた方々のお話を聴いたとき、自分の死別経験がとても小さく感じられてしまったのです。
本当は、悲しみを比べる必要などありません。
父を亡くした悲しみは、Qさんにとって確かに大切な悲しみです。
誰かの経験がより大変そうに見えたとしても、Qさんの悲しみが軽くなるわけではありません。
それでも、人の話を目の前で聴いていると、心はつい比べてしまうことがあります。
「この人の方がつらそう」
「私がここで話していいのかな」
「自分の話は、たいしたことがないと思われるのではないか」
そう考え始めると、言葉はだんだん出にくくなります。
Qさんも、「この場にいていいのだろうか」という思いが繰り返し浮かび、発言が消極的になってしまっていました。
私は、その気持ちを無理に打ち消そうとはしませんでした。
「比べなくていいですよ」とすぐにまとめてしまう前に、まずはQさんがその場で感じたもやもやを、丁寧に言葉にしていただくことを大切にしました。
話したかったのに話しにくくなったこと。
同じような人とつながりたかったのに、かえって孤独を感じてしまったこと。
自分の悲しみを尊重してほしい気持ちがあるのに、それを出していいのか分からなくなったこと。
その気持ちの流れを一緒に見つめていくことが、Qさんにとって大切な時間になっていきました。
「この場にいていいのだろうか」と感じてしまった
Qさんが頭の中で繰り返していた言葉は、「この場にいていいのだろうか」でした。
この言葉には、ただ居心地が悪かったというだけではなく、もっと深い迷いが含まれていたように感じます。
自助グループに参加したということは、Qさんの中に「話したい」「分かってもらいたい」「同じ経験をした人とつながりたい」という思いがあったということです。
けれど、その場で他の方の死別経験を聴いたとき、Qさんは自分の悲しみを出していいのか分からなくなってしまいました。
「もっと大変な人がいる」
「自分の話をしたら、場違いに思われるかもしれない」
「私の悲しみは、この場で語るほどのものなのだろうか」
そんなふうに感じると、自分の席が急に小さくなったように思えることがあります。
実際には、誰かに否定されたわけではなかったのかもしれません。
それでも、他の人の経験を聴く中で、自分自身が自分の悲しみを引っ込めてしまうことがあります。
この「自分で自分の悲しみを小さく扱ってしまう感覚」は、とても苦しいものです。
周りに遠慮しているようでいて、実は自分の心を置き去りにしてしまうからです。
私はQさんのお話を聴きながら、「この場にいていいのだろうか」と感じたことを、否定する必要はないと思いました。
その思いが出てきたのは、Qさんがその場にいる方々の悲しみを軽く扱いたくなかったからでもあると思います。
相手のつらさを大切に感じたからこそ、自分の話をしていいのか迷ってしまった。
でも、相手の悲しみを大切にすることと、自分の悲しみを大切にすることは、本来どちらか一つを選ぶものではありません。
Qさんがその場にいていいかどうかは、悲しみの大きさで決まるものではありません。
父を亡くした悲しみを抱えているQさんが、悲しみを話せる場所を求めたこと自体、とても自然なことだったと思います。
自分より壮絶な経験を聴くほど、話しにくくなっていった
自助グループでは、さまざまな死別経験を持つ方が集まります。
同じ「死別」という言葉でくくられていても、その中身は一人ひとりまったく違います。
亡くなった方との関係性。
亡くなり方。
亡くなるまでの経緯。
その後の生活の変化。
周りから受けた言葉。
どれ一つとして、完全に同じものはありません。
Qさんは、その場で自分よりも壮絶な死別経験をされた方々のお話を聴き、自分の死別経験が小さく感じられたと話してくださいました。
この「小さく感じる」という感覚は、実際に悲しみが小さいという意味ではありません。
むしろ、自分の悲しみを大切にしたいのに、大切にしていいと言えなくなっている状態に近いのだと思います。
誰かの話が深刻であればあるほど、自分の話を出すことにためらいが出る。
「この流れで私が話してもいいのかな」
「自分の話をしたら、軽く聞こえてしまうのではないかな」
「もっと大変な人の前で、つらいと言っていいのかな」
そう考え始めると、言葉は自然と少なくなります。
Qさんも、発言が消極的になってしまっていました。
でも、ここで大事なのは、悲しみには順位がないということです。
誰かの経験が壮絶だからといって、Qさんの悲しみが消えるわけではありません。
他の人が深く傷ついているからといって、Qさんが父を亡くして感じた喪失感が「話してはいけないもの」になるわけでもありません。
悲しみは、点数をつけるものではありません。
大きい小さいで比べるものでもありません。
その人にとって大切な人を失ったという事実があり、その人の中に残っている痛みがある。
それだけで、十分に大切に扱われていいものです。
私はQさんに対して、すぐに「比べなくていい」と結論だけを伝えるのではなく、まずは「比べてしまった自分」も責めなくていいのだと感じてもらえるように、お話を聴いていきました。
比べてしまうこと自体が悪いのではありません。
比べた結果、自分の悲しみをなかったことにしてしまうことが、Qさんを苦しくさせていたのだと思います。
だからこそ、Qさんが感じた遠慮や戸惑いを一つずつ言葉にしながら、「自分の悲しみもここにあっていい」と思える方向へ、ゆっくり整理していくことが必要でした。
話したい気持ちと、話してはいけない気がする気持ちがぶつかっていた
Qさんの中には、二つの気持ちが同時にあったように思います。
一つは、自分の死別経験も尊重されたいという気持ち。
もう一つは、他の方の経験を聴くほど、自分の話をしてはいけないように感じる気持ちです。
この二つがぶつかると、心の中に強いもやもやが生まれます。
話したい。
でも話せない。
分かってほしい。
でも、こんなことを言っていいのか分からない。
同じような経験の人とつながりたい。
でも、完全に同じ経験の人とはなかなか出会えない。
Qさんの悩みの背景には、こうした行き場のない気持ちがありました。
ファイルにも、Qさんが「自分の死別経験も尊重されたい」「同じような経験をした人と繋がりたい」と思っていたこと、そして現実には全く同じ死別経験をした方と出会うのは難しいことが記されています。
この「同じような経験をした人とつながりたい」という願いは、とても自然です。
大切な人を亡くしたあと、自分の気持ちを説明しなくても分かってもらえる相手に出会いたいと思うことがあります。
「私もそうだった」と言ってもらえるだけで、心が少しやわらぐこともあります。
ただ、その一方で、完全に同じ経験をした人と出会うことは簡単ではありません。
たとえ同じ親との死別であっても、関係性や距離感、亡くなるまでの経過、その後の生活は一人ひとり違います。
だからこそ、集団の場では救われる部分もあれば、かえって話しづらくなる部分もあります。
Qさんは、その難しさの中にいたのだと思います。
私は、Qさんの「話したい」と「話してはいけない気がする」の両方を、どちらか一方に決めつけずにお聴きしました。
話したい気持ちがあることも大切。
話しにくくなってしまったことも大切。
自分の悲しみを尊重してほしい気持ちも大切。
他の人の悲しみを前にして遠慮してしまったことも、Qさんなりの優しさや戸惑いの表れだったのだと思います。
人の心は、いつもきれいに一つの答えにまとまるわけではありません。
悲しいのに遠慮してしまう。
話したいのに言葉が出ない。
つながりたいのに、場にいづらくなる。
そうした矛盾を抱えたままでも、ゆっくり話して大丈夫です。
Qさんにとってまず必要だったのは、正しい答えを出すことではなく、自分の中にある複数の気持ちを、比べずに置ける時間だったのだと思います。
死別の悲しみは比べるものではなく、それぞれ大切にしていい
Qさんのお話を聴いていく中で、少しずつ見えてきたのは、「自分の悲しみを大切にしていいのだろうか」という迷いでした。
父との死別後、自助グループに参加したQさんは、本当は同じような経験をした人とつながりたい、自分の死別経験も尊重されたいと思っていました。
けれど、その場で他の方々の死別経験を聴くうちに、自分の経験が小さく感じられ、「この場にいていいのだろうか」という思いが強くなっていきました。
その気持ちは、とても自然なものだと思います。
人は、自分よりつらそうに見える人、自分より大変な経験をしてきたように感じる人を前にすると、自分の苦しさを出すことに遠慮してしまうことがあります。
「私がつらいと言っていいのかな」
「もっと大変な人がいるのに」
「私の話は、ここで話すほどのものではないのかもしれない」
そんなふうに、自分の悲しみを後ろへ下げてしまうことがあります。
でも、死別の悲しみは、誰かと比べて大きさを決めるものではありません。
父を亡くしたQさんの悲しみは、Qさんにとって大切な悲しみです。
他の方の経験がどれほど壮絶であっても、Qさんがお父様を亡くした事実や、その後に抱えてきたもやもやが小さくなるわけではありません。
私は、Qさんに「比べなくていいですよ」と一言でまとめるのではなく、まずは比べてしまった心の動きそのものを、ゆっくりお聴きしていきました。
自分の悲しみを小さく感じてしまったこと。
話したいのに、話してはいけない気がしたこと。
同じ経験をした人とつながりたいのに、完全に同じ経験の人とはなかなか出会えないもどかしさ。
その一つひとつを言葉にしていく中で、Qさんは少しずつ「自分の死別経験を大切にしていい」「死別経験は他者の経験と比べるものではない」という気づきに近づいていきました。
誰かの悲しみが深いからといって、自分の悲しみが消えるわけではない
自助グループのような場では、いろいろな方の死別経験を聴くことがあります。
その中には、言葉を失うほどつらい経験もあるかもしれません。
突然の別れ。
長い看取り。
後悔が残る別れ。
家族関係の複雑さを抱えたままの死別。
人それぞれ、語られる背景は違います。
そうした話を聴いていると、自分の悲しみをその場に出していいのか分からなくなることがあります。
Qさんも、自分より壮絶な死別経験をされた方々の話を聴いたとき、自分の死別経験がとても小さく感じられてしまいました。
でも、誰かの悲しみが深いからといって、自分の悲しみが消えるわけではありません。
たとえば、誰かが大きなけがをしているからといって、自分の傷が痛くなくなるわけではありません。
誰かがもっと大変そうに見えるからといって、自分の苦しさをなかったことにしなくてもいいのです。
悲しみも同じです。
人と比べて「こちらの方が大変」「こちらはまだまし」と整理しようとすると、心は少しずつ苦しくなります。
本当は悲しいのに、「このくらいで悲しんではいけない」と自分に言い聞かせてしまう。
本当は話したいのに、「もっとつらい人がいるから」と言葉を飲み込んでしまう。
そうすると、悲しみそのものだけでなく、悲しんでいる自分を責める苦しさまで重なってしまいます。
私は、Qさんのお話を聴きながら、Qさんが自分の悲しみを小さく見積もろうとしていることに、とても胸が痛くなりました。
Qさんは、お父様を亡くされたのです。
その悲しみは、他の誰かの悲しみと比べる必要のない、Qさんにとって大切な経験です。
大切な人を失ったあとに残る気持ちは、その人にしか分からない部分があります。
だからこそ、「他の人より軽いかどうか」ではなく、「自分にとってどんな悲しみだったのか」を大切にしていいのだと思います。
「比べてしまう自分」を責めなくてもいい
悲しみは比べるものではない。
そう頭では分かっていても、実際に人の話を聴くと、比べてしまうことがあります。
「あの人の方がつらそう」
「私より大変な経験をしている」
「私はここで話すほどではないのかもしれない」
そんなふうに感じてしまうと、今度は「比べてしまう自分がよくないのでは」と責めたくなることもあります。
けれど、私はQさんにとって大切だったのは、「比べてしまった自分」を責めることではなく、その奥にあった気持ちに気づいていくことだったと思っています。
Qさんは、他の方の経験を軽く見ていたわけではありません。
むしろ、他の方の悲しみを重く受け止めたからこそ、自分の話をしていいのか分からなくなったのだと思います。
「この場にいていいのだろうか」と感じた背景には、その場にいる方々への遠慮や、悲しみを大切に扱いたい気持ちもあったのではないかと感じました。
ただ、その遠慮が強くなりすぎると、自分の悲しみを置き去りにしてしまいます。
人の悲しみを大切にすることと、自分の悲しみを大切にすることは、どちらか一つしか選べないものではありません。
他の方の経験を尊重しながら、自分の経験も尊重していいのです。
私は、Qさんが「比べてしまった」と感じていることを、悪いこととして扱わないようにしました。
比べてしまう心の動きは、人の話を聴く中で自然に起こることがあります。
大切なのは、比べたあとに「だから私の悲しみは話してはいけない」と結論づけてしまわないことです。
Qさんが感じていたもやもやの中には、「本当は自分の死別経験も尊重されたい」という大切な本音がありました。
その本音は、遠慮でかき消してしまわなくていいものです。
比べてしまった自分を責めるよりも、
「私は、自分の悲しみも大切にしたかったんだな」
「私は、安心して話せる場所を求めていたんだな」
そう気づいていくことの方が、Qさんにとって必要だったのだと思います。
悲しみの中にいるとき、人はいつもきれいな気持ちだけでいられるわけではありません。
もやもやすることもあります。
人と比べてしまうこともあります。
話したいのに引っ込めてしまうこともあります。
それでも、その気持ちを責めずに見つめていくことで、自分の悲しみを少しずつ取り戻していけるのだと思います。
自分の死別経験を大切にしていいと気づいていく
Qさんが相談の中で気づいていったことの一つに、「自分の死別経験を大切にしていい」というものがありました。
これは、とてもシンプルな言葉に見えるかもしれません。
でも、悲しみを比べてしまっているときには、このシンプルなことが分からなくなってしまうことがあります。
父を亡くした悲しみ。
自助グループに行ってみようと思うほど、誰かとつながりたかった気持ち。
そこで他の方の話を聴いて、自分の悲しみが小さく感じられてしまったもやもや。
発言が消極的になってしまったこと。
それらはすべて、Qさんの中で実際に起きていた大切な心の動きです。
私は、Qさんがその気持ちを一つずつ言葉にできるように、急かさずにお聴きしました。
「悲しみは比べるものではありません」と伝えるだけなら簡単です。
でも、それだけでは、Qさんの中に残っているもやもやは置き去りになってしまうかもしれません。
なぜ比べてしまったのか。
なぜ話しにくくなったのか。
本当は何を望んでいたのか。
そこを一緒にたどっていくことで、Qさんは少しずつ、自分の悲しみを否定しなくてもいいのだと感じられるようになっていったのだと思います。
死別経験は、他の人の経験と同じである必要はありません。
同じ「親との死別」であっても、親子関係は一人ひとり違います。
亡くなるまでの時間も違います。
残された言葉も、後悔も、思い出も、その人によって違います。
だから、完全に同じ死別経験をした人と出会うのは難しいことです。
それでも、自分の悲しみを大切にすることはできます。
誰かと同じ悲しみでなくても、自分の悲しみとして尊重していいのです。
Qさんにとって必要だったのは、「他の人と同じ悲しみを持っているかどうか」を確認することではなく、「自分の悲しみを自分のものとして大切にしていい」と感じられることだったのだと思います。
悲しみは、誰かに認められるために大きく見せるものでも、小さく隠すものでもありません。
その人の中にあるまま、丁寧に扱われていいものです。
Qさんが「自分の死別経験は他者の経験と比べるものではない」と持ち帰られたことは、これからご自身の悲しみと向き合っていくうえで、とても大切な一歩だったと感じています。
同じ経験を探し続けるより、まず自分の悲しみを安心して話せる場所へ
Qさんは、父との死別後に抱えていたグリーフを少しでも分かってもらいたいと思い、自助グループの会に参加されました。
同じような経験をした人とつながりたい。
自分の死別経験も尊重されたい。
その思いは、とても自然なものだったと思います。
大切な人を亡くしたあと、身近な人に話せないわけではなくても、「この感覚は、同じような経験をした人でないと分からないのではないか」と感じることがあります。
だからこそ、自分と近い経験をした人に会いたいと思うことがあります。
けれど実際には、まったく同じ死別経験をした方と出会うのは簡単ではありません。
自助グループに集まる方々も、それぞれ違う関係性、違う別れ方、違う悲しみを抱えています。
その日にどんな方が集まるのかも、自分で決めることはできません。
Qさんの場合も、同じ死別経験を持つ人たちの場に行ったからこそ、救われる部分と同時に、話しにくさも出てきました。
自分より壮絶な経験をされた方の話を聴き、自分の悲しみが小さく感じられてしまった。
「この場にいていいのだろうか」と思い、発言が消極的になってしまった。
だからこそ私は、Qさんにとって大切なのは、まず自分の悲しみを比べずに話せる時間なのではないかと感じました。
同じ経験の人を探すことが悪いわけではありません。
自助グループが合う方もいますし、そこで深く救われる方もいます。
ただ、今のQさんに必要だったのは、誰かの経験と比べながら話す場ではなく、「父を亡くしたQさん自身の悲しみ」をそのまま大切にできる場所だったのだと思います。
相談後、Qさんは「個別相談へ行ってみようと思います」と感じられました。
それは、同じ経験を探すことをあきらめるという意味ではありません。
まずは、自分の悲しみを誰かと比べずに話す。
自分の死別経験を、自分のものとして大切にする。
その一歩を選んでいくことだったのだと思います。
自助グループで癒されることもあれば、苦しくなることもある
自助グループは、同じような悩みや経験を持つ人が集まる場です。
一人で抱えていた思いを話せたり、他の方の言葉を聴いて「自分だけではなかった」と感じられたりすることがあります。
特に死別の悲しみは、日常の会話の中ではなかなか話しにくいものです。
相手に気を遣わせてしまうのではないか。
暗い話だと思われるのではないか。
もう時間が経っているのに、まだ引きずっていると思われるのではないか。
そんなふうに感じて、身近な人には話せなくなることもあります。
だからこそ、死別経験のある人たちが集まる場所に行ってみたいと思うのは、とても自然なことです。
Qさんも、父との死別後にグリーフを抱え、自助グループの会に参加されました。
そこには、死別経験のある初めて会う方々がいて、それぞれの死別経験を語る場になっていました。
自助グループで、自分と近い経験をした方に出会えたときには、大きな癒しを感じることがあります。
「ああ、この人には分かってもらえるかもしれない」
「同じように感じていた人がいたんだ」
そう思えるだけで、心の緊張が少しゆるむこともあります。
ただ、その一方で、集まる人たちは必ずしも自分と同じ経験をしているわけではありません。
同じ「死別」という言葉の中にも、親との死別、配偶者との死別、子どもとの死別、友人との死別など、さまざまな関係性があります。
亡くなり方も、亡くなるまでの時間も、残された人の生活の変化も、それぞれ違います。
Qさんは、他の方の壮絶な死別経験を聴いたことで、自分の死別経験がとても小さく感じられてしまいました。
これは、Qさんが自助グループに向いていないという単純な話ではありません。
そのときの心の状態や、その日に集まった方々との組み合わせによって、安心できることもあれば、かえって苦しくなることもあるのだと思います。
私は、Qさんに対して「その場に行かなければよかった」とは感じませんでした。
むしろ、行ってみたからこそ分かったことがありました。
Qさんには、自分の死別経験も尊重されたいという思いがあること。
同じような経験をした人とつながりたい気持ちがあること。
でも、複数の人がいる場では、自分の悲しみを出しにくくなることがあること。
それらが見えてきたからこそ、次に必要な場所を考えやすくなったのだと思います。
比べることのない個別の時間で、悲しみを言葉にしていく
Qさんのお話を聴きながら、私は「まずは比べることのない個別の時間が必要なのではないか」と感じました。
自助グループのような場では、他の方の経験がどうしても耳に入ります。
それが支えになることもありますが、Qさんのように、自分の悲しみを小さく感じてしまう方にとっては、話す前から遠慮が出てしまうことがあります。
「私の話をしていいのかな」
「もっと大変な人がいるのに」
「このくらいで悲しいと言っていいのかな」
そんな思いが出てくると、本当に話したかったことまで胸の奥に戻ってしまいます。
Qさんは、本当は自分の死別経験も尊重されたいと思っていました。
同じような経験をした人とつながりたいという気持ちもありました。
けれど、話す場で他の方の経験と比べてしまうと、自分の悲しみをそのまま出すことが難しくなります。
だからこそ、まずは誰かの経験と並べずに、自分の悲しみだけを置ける時間が大切なのだと思います。
個別に話す時間では、他の方の話に遠慮する必要がありません。
話がまとまっていなくても大丈夫です。
「父を亡くしてから、こんなふうに感じている」
「自助グループに行ったけれど、余計にもやもやしてしまった」
「同じ経験の人とつながりたいのに、うまく話せなかった」
そんな言葉になりきらない気持ちから始めてもいいのです。
私は、Qさんの気持ちを急いで整理しようとはせず、まず吐き出していただくことを大切にしました。
それは、答えをすぐに出すためではありません。
Qさん自身が、自分の中にある悲しみやもやもやを、少しずつ見つけられるようにするためです。
人は、自分の気持ちを話しているうちに、はじめて気づくことがあります。
「私は、自分の悲しみを軽く扱っていたのかもしれない」
「本当は、父を亡くした悲しみをちゃんと聴いてほしかったんだ」
「同じ経験の人を探す前に、まず自分の悲しみを大切にしたかったんだ」
そうした気づきは、誰かに押しつけられるものではありません。
安心して話せる時間の中で、少しずつ自分の中から出てくるものだと思います。
Qさんにとって、個別に話すことは、自分の悲しみを取り戻していくための一歩だったのだと思います。
自分の悲しみを尊重することが、次のつながりにつながっていく
Qさんは相談後、「個別相談へ行ってみようと思います」と感じられました。
これは、とても大切な変化だったと思います。
自助グループで話しにくさを感じたあと、「やっぱり私は話してはいけないんだ」と閉じてしまうこともできたかもしれません。
「同じ経験の人と出会えないなら、もう誰にも話せない」と思ってしまうこともあったかもしれません。
でもQさんは、自分の悲しみをあきらめるのではなく、別の形で話してみる方向へ気持ちを向けられました。
そこには、「自分の死別経験は他者の死別経験と比べるものではない」という気づきがあったのだと思います。
自分の悲しみを尊重することは、わがままではありません。
他の人の悲しみを軽く見ることでもありません。
むしろ、自分の悲しみを大切にできるようになると、他の人の悲しみとも、少し距離をとって向き合えるようになることがあります。
相手の話を聴いても、「それに比べて私は」と自分を小さくしすぎない。
誰かの苦しさを尊重しながら、自分の苦しさも否定しない。
その感覚が少しずつ育っていくと、人とのつながり方も変わっていくのだと思います。
Qさんには、まだ「同じような経験をした人とつながりたい」という思いが残っていました。
その思いは、無理に手放さなくていいものです。
ただ、その前に、自分の悲しみを比べずに受け止められる時間があると、次に誰かとつながるときの心の負担が少し軽くなるかもしれません。
「分かってもらえなかったらどうしよう」
「私の悲しみは小さいと思われるのでは」
そうした不安が完全になくなるわけではなくても、自分の中で「私の悲しみも大切にしていい」と思えるだけで、少し立っている場所が変わります。
私は、Qさんが持ち帰られた「自分の死別経験は他者の死別経験と比べるものではない」という言葉を、とても大切なものだと感じています。
死別の悲しみは、誰かとの比較で価値が決まるものではありません。
その人が大切な人を失ったという事実。
そのあとに抱えてきた気持ち。
話せなかった時間。
つながりたいと願った思い。
そのすべてが、その人にとって大切なものです。
Qさんがまず自分の悲しみを尊重することは、これから誰かとつながっていくための土台にもなっていくのだと思います。
死別の悲しみは、比べずに話して大丈夫です
死別の悲しみを抱えていると、同じような経験をした人とつながりたいと思うことがあります。
「この気持ちは、経験した人にしか分からないのではないか」
「同じように大切な人を亡くした人なら、分かってくれるかもしれない」
そんな思いから、誰かの言葉を探したくなることがあります。
けれど、実際にほかの人の死別経験を聴いたとき、かえって自分の悲しみが小さく感じられてしまうこともあります。
「もっとつらい経験をしている人がいる」
「私が悲しいと言っていいのかな」
「この場にいていいのだろうか」
そんなふうに感じて、話したかった気持ちを胸の奥に戻してしまうこともあるかもしれません。
でも、死別の悲しみは、誰かと比べて大きさを決めるものではありません。
誰かの経験が壮絶だからといって、あなたの悲しみが小さくなるわけではありません。
大切な人を亡くした悲しみは、その人にとって大切な悲しみです。
今回のQさんも、父との死別後に自助グループへ参加されましたが、他の方の死別経験を聴く中で、自分の経験が小さく感じられ、「この場にいていいのだろうか」と感じていました。
それでも、気持ちを少しずつ言葉にしていく中で、Qさんは「自分の死別経験を大切にしていい」「死別経験は他者の経験と比べるものではない」と気づいていかれました。
悲しみを話す場所は、一つだけではありません。
大勢の中で話すことで少し楽になる方もいれば、まずは一対一で、誰かと比べずに話す方が安心できる方もいます。
うまく整理できていなくても大丈夫です。
「悲しい」
「もやもやする」
「自分の悲しみを話していいのか分からない」
そんな言葉から始めても大丈夫です。
あなたの悲しみは、誰かと比べなくても、ちゃんと大切にされていいものです。
もし今、死別の悲しみをひとりで抱えていたり、誰かの経験と比べて自分の気持ちを小さくしてしまっていたりするなら、一度その思いを話してみませんか。
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「少し話してみようかな」と思ったタイミングで、無理のない形でご利用ください。
死別の悲しみを、ひとりで抱え続けなくて大丈夫です。
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