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ペットロスで「もう飼えない」と感じる50代女性の相談事例|愛犬との別れと虚しさに寄り添う時間

ペットロスで「もう飼えない」と感じる50代女性の相談事例|愛犬との別れと虚しさに寄り添う時間

今回のご相談者様は、関東にお住まいの50代女性Mさんです。

相談方法は対面で、相談テーマはペットロスでした。

Mさんは、長年にわたって何匹もの犬や猫と暮らし、何匹も看取ってこられました。

毎回のお別れは悲しいものだったそうですが、昨年、そして今年と連続で愛犬を亡くしてから、年々ペットロスのつらさが深くなっていると感じるようになったそうです。

自分の年齢や体力のことを考えると、もう犬や猫をお迎えするのはやめようと思っている。

犬や猫を迎えたら、看取るところまでが飼い主の役目だから。

そう頭ではわかっていても、本当はずっと一緒に犬や猫と暮らしていたい。

その思いが消えるわけではありませんでした。

Mさんの中には、「もう飼えないのは仕方ない」という言葉と、「本当はまだ一緒に暮らしたい」という気持ちが、同時にありました。

そして、口にされた「なんだか虚しいです」という言葉には、愛した存在を失った悲しみだけではなく、これから先の暮らしの中で何かがぽっかり空いてしまったような感覚も含まれていたように感じました。

私は、Mさんに何かを提案するのではなく、まずはそのどうにもならない気持ちを、そのままお聴きすることを大切にしました。

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投稿者プロフィール

田中はる
田中はるよりびと
■ 対応しやすい時間帯:① 10:00〜14:00|朝昼タイム ② 14:00〜18:00|午後タイム
※土日祝対応(枠が埋まりやすいため、事前予約をお勧めします)
※シフトは2週間単位で掲載します、詳しくは待機カレンダーを確認ください。

■ 年齢:40代

■ キャッチコピー:安心できる雰囲気でゆっくり丁寧にお聴きします。

■ 得意なテーマ

- ペットロス・グリーフケア(死別や離別による悲嘆反応)
- 身近な人間関係の悩み(親子・配偶者やパートナー・女性同士など)
- とにかく話を聴いてほしいとき

■ 聴き方・スタイル

- お相手のペースに合わせてゆっくり聴きます
- 話がまとまっていなくても大丈夫
- 否定せず、穏やかに受け止めます
- 沈黙も気まずくしないスタイルです

■ 経験

- 自分自身のペットロスとグリーフの経験によりグリーフケアを学び、対象別自助グループ傾聴ボランティアに参加(ペット・配偶者やパートナー・子ども・親・きょうだいを亡くされた方々が参加する会)
- 死別経験(妊娠後期流産・義父・義母・父・愛犬)
- 病気で介護状態になった父の身元引受人の経験
- 結婚生活20年以上
- 犬の飼育経験
- 子育て経験
- 両親の離婚や母の再婚により複雑な家庭環境で過ごした経験
- 資格・認定:認定傾聴カウンセラー/グリーフケア心理カウンセラー/ペットロス専門士/グリーフ専門士/グリーフケア・アドバイザー/心のサポーター/かかわり愛サポーター

■ 大切にしていること

- どんなお話も否定しません
- 話したくないことは無理に聞きません
- 気持ちが整理されていなくてもそのままで大丈夫
- 泣いても沈黙してもOK

■ 人柄・ユニークポイント

- 好きなもの:犬/お花/映画やドラマ鑑賞
- よく言われる性格:「やさしい」「落ち着いている」「話しやすい」「頼もしい」
- ちょっとしたこだわり:自分時間を大切にしてコーピングを増やすこと
- 聴き手としての密かな強み:「お相手の気持ちを受け止め共感すること」

■ メッセージ

今おひとりで抱えているつらいお気持ちや社会では理解されにくいことなど、どのようなお話でも大丈夫です。うまく言葉にならなくても泣いてしまっても問題ありません。あなたのペースで、安心してお話しくださいね。

目次

愛犬を続けて亡くし、ペットロスの悲しみが年々深くなっていった

ペットとの別れは、何度経験しても慣れるものではありません。

長く一緒に暮らしてきた犬や猫は、毎日の中に当たり前のようにいてくれる存在です。

朝起きたときにそばにいること。

ごはんを待っている姿。

散歩の準備をすると嬉しそうにする顔。

名前を呼ぶと振り向いてくれる瞬間。

そうした一つひとつが、暮らしの中に深く根づいています。

だからこそ、亡くなったあとも、ふとした場面でその子の気配を探してしまうことがあります。

今回のご相談者様は、関東にお住まいの50代女性Mさんです。

相談方法は対面で、相談テーマはペットロスでした。

Mさんは、長年にわたって何匹もの犬や猫と暮らし、何匹も看取ってこられました。

毎回のお別れは悲しいものだったそうです。

けれど、昨年、そして今年と連続で愛犬を亡くしてから、以前よりもペットロスのつらさが深くなっていると感じるようになりました。

年齢を重ねる中で、悲しみの受け止め方も少しずつ変わっていきます。

若い頃なら「またいつか迎えたい」と思えたことも、今は自分の年齢や体力を考えてしまう。

犬や猫を迎えるなら、看取るところまでが飼い主の役目。

その責任を考えると、もう新しく犬や猫をお迎えするのはやめようと思っている。

でも本当は、ずっと一緒に犬や猫と暮らしていたい。

Mさんの中には、そうした二つの気持ちが同時にありました。

私は、Mさんの悲しみに対して、何か答えを急いで出そうとはしませんでした。

ただ、どうにもならない気持ちをそのまま言葉にしていただけるように、そばで丁寧にお聴きすることを大切にしました。

悲しみは、すぐに前向きに変えなくてもいいものです。

「なんだか虚しいです」

その言葉の奥には、大切な存在を失った悲しみと、これから先の暮らしを思ったときの寂しさが静かに重なっているように感じました。

何度看取っても、別れの悲しみに慣れることはない

Mさんは、これまで長年にわたって犬や猫と暮らしてこられました。

一匹だけではなく、何匹もの子たちと生活を共にし、そして何匹も看取ってきたそうです。

ペットと暮らすということは、楽しい時間だけを受け取ることではありません。

体調を気にかける日もあります。

年を重ねていく姿を見守る時間もあります。

できることが少しずつ減っていく様子をそばで見ることもあります。

そして最後には、見送りの時間がやってきます。

Mさんは、そうした時間を何度も経験されてきました。

毎回のお別れは悲しかった。

それでも、犬や猫と暮らす喜びがあったからこそ、また一緒に暮らしてこられたのだと思います。

けれど、昨年、そして今年と連続で愛犬を亡くしたことで、悲しみの重なり方が以前とは違って感じられるようになりました。

一度の別れだけでもつらいのに、その悲しみが続くと、心が追いつかなくなることがあります。

「また看取った」

「またいなくなってしまった」

そんな感覚が積み重なると、胸の奥にぽっかり穴が空いたような虚しさが残ることもあります。

周りから見ると、「長く飼ってきたのだから仕方ない」「命あるものだから」と思われるかもしれません。

でも、頭でわかることと、心が受け止められることは違います。

どれだけ長く犬や猫と暮らしてきた方でも、別れに慣れるわけではありません。

むしろ、これまで何度も愛してきたからこそ、何度も悲しみの深さを知っているのだと思います。

私は、Mさんのお話を聴きながら、無理に悲しみを薄めようとはしませんでした。

「何度も経験しているから大丈夫」ではなく、「何度経験しても悲しいものは悲しい」と、そのまま受け止めていいのだと思います。

悲しみが深いのは、それだけ大切に暮らしてきた証でもあります。

涙が出ることも、虚しさが残ることも、弱さではありません。

Mさんが大切な存在と本気で向き合ってきたからこそ、今の悲しみがあるのだと感じました。

年齢や体力を考えると、もう迎えられないと思ってしまう

Mさんが抱えていたつらさは、愛犬を亡くした悲しみだけではありませんでした。

自分の年齢や体力を考えると、もう犬や猫をお迎えするのはやめようと思っている。

その現実が、心に重くのしかかっていました。

若い頃であれば、別れのあとに「いつかまた新しい子を迎えたい」と思えたかもしれません。

もちろん、新しい子を迎えたからといって、亡くなった子の代わりになるわけではありません。

それでも、また犬や猫と一緒に暮らす未来を思い描けることは、心の支えになることがあります。

けれど、年齢を重ねていくと、その選択が簡単ではなくなります。

犬や猫を迎えるということは、毎日の世話をすることです。

ごはんを用意する。

体調を見守る。

病院に連れていく。

散歩や掃除、暑さ寒さへの気配りも必要です。

そして何より、最後まで責任を持って見届けることが求められます。

Mさんも、「犬や猫を迎えたら、看取るまでは飼い主の役目」と考えていました。

だからこそ、自分の年齢や体力を考えたときに、簡単に「また迎えたい」とは言えなかったのだと思います。

それはとても誠実な思いです。

好きだからこそ、無責任には迎えられない。

一緒に暮らしたいからこそ、最後まで守れるかを考えてしまう。

Mさんの中には、そんな深い責任感がありました。

けれど、その責任感があるからこそ、心は苦しくなっていました。

「もう飼えないのは仕方ない」

そう自分に言い聞かせても、本当はずっと犬や猫と暮らしていたい。

その本音は、簡単には消えません。

私は、Mさんのその揺れを否定せずに聴いていきました。

「もう迎えない」と決めることも、「本当は一緒に暮らしたい」と思うことも、どちらもMさんの大切な気持ちです。

どちらか一つに無理やりまとめなくてもいい。

年齢や体力を考えた現実と、心の中にある願い。

その両方を抱えているからこそ、Mさんの悲しみはより深く感じられていたのだと思います。

本当はずっと犬や猫と暮らしていたい気持ちが残っている

Mさんは、「もう犬や猫をお迎えするのはやめよう」と思っていました。

でも、その言葉の奥には、本当はずっと一緒に暮らしていたいという気持ちがありました。

この二つの思いは、矛盾しているように見えるかもしれません。

けれど、実際にはどちらも本音なのだと思います。

もう迎えない方がいい。

年齢や体力を考えると、その方が現実的。

最後まで責任を持てるかを考えると、簡単には決められない。

そう思う一方で、犬や猫のいる暮らしを思い出すと、やっぱり寂しい。

家の中に気配があること。

声をかける相手がいること。

帰ったときに迎えてくれる存在がいること。

そうした日々が、Mさんにとってどれほど大きな支えだったのかが伝わってきました。

ペットを亡くしたあと、家の中の静けさが急に大きく感じられることがあります。

いつもいた場所にいない。

音がしない。

世話をする時間がなくなる。

自由になったはずなのに、心は軽くならない。

むしろ、何をしていいかわからないような虚しさが残ることもあります。

Mさんが口にされた「なんだか虚しいです」という言葉には、そうした静かな寂しさが込められていたように感じました。

私はその言葉を、急いで励ますような形では受け止めたくありませんでした。

「また何か楽しみを見つけましょう」と簡単に言えるものではないからです。

Mさんにとって、犬や猫との暮らしはただの趣味ではなく、人生の大切な一部でした。

だからこそ、失ったあとの空白も大きいのだと思います。

本当は一緒に暮らしたい。

でも、もう迎えるのは難しい。

その間で揺れる気持ちは、とても自然なものです。

悲しみがあるのに、無理に整理しようとしなくても大丈夫です。

「まだ一緒にいたかった」と思っていい。

「看取りたくなかった」と感じてもいい。

その気持ちは、飼い主としての責任を果たしてきたMさんの愛情と、決して矛盾しないものだと思います。

「もう迎えない」と決めても、心はすぐに納得できない

Mさんは、自分の年齢や体力のことを考え、もう犬や猫をお迎えするのはやめようと思っていました。

犬や猫と暮らすことは、かわいがる時間だけではありません。

毎日のごはん、体調管理、病院への付き添い、年を重ねてからのお世話。

そして最後には、看取るところまでが飼い主の役目になります。

Mさんは長年、何匹もの犬や猫と暮らし、その子たちを最後まで見届けてこられました。

だからこそ、「好きだからまた迎えたい」という気持ちだけでは決められないことも、よくわかっていたのだと思います。

でも、頭で納得しようとしても、心が同じ速さでついてくるとは限りません。

「もう飼えないのは仕方ない」

そう思っていても、家の中に犬や猫の気配がない寂しさは残ります。

本当は、ずっと一緒に暮らしていたい。

また名前を呼びたい。

そばにいる温かさを感じたい。

そんな思いが出てくることは、とても自然なことです。

私はMさんのお話を聴きながら、「決めたこと」と「寂しい気持ち」は、別々にあってもいいのだと感じました。

もう迎えないと決めたからといって、寂しがってはいけないわけではありません。

現実を考えて選んだことと、心の中に残る願いは、どちらもMさんの本当の気持ちです。

だからこそ、どちらかを消そうとしなくてもいい。

ただ、今ある悲しみや虚しさを、そのまま置ける時間が必要だったのだと思います。

責任感があるからこそ、簡単に「また迎えたい」と言えない

Mさんは、犬や猫を迎えたら、看取るまでは飼い主の役目だと考えていました。

この言葉には、とても深い責任感があります。

ペットと暮らすことを、ただ「かわいいから」「寂しいから」という気持ちだけで考えていないということです。

元気なときだけでなく、病気になったときも、年を重ねたときも、最後の時間まで一緒にいる。

その覚悟を持ってきたからこそ、Mさんはこれまで何匹もの犬や猫を看取ってこられたのだと思います。

でも、その責任感があるからこそ、今は苦しさにもつながっていました。

本当はまた一緒に暮らしたい。

けれど、自分の年齢や体力を考えると、最後まで十分に見届けられるだろうかと不安になる。

もし自分の方が先に体調を崩したらどうしよう。

お世話が思うようにできなくなったらどうしよう。

そんなことまで考えると、簡単に「また迎えよう」とは言えなくなります。

周りから「寂しいならまた飼えばいい」と言われることもあるかもしれません。

でも、Mさんにとっては、そんなに簡単な話ではありませんでした。

新しい子を迎えることは、亡くなった子の代わりを探すことではありません。

新しい命を、また最後まで引き受けるということです。

だからこそ、好きな気持ちがあるほど、慎重になってしまうのだと思います。

私は、Mさんのその責任感を否定したくありませんでした。

「そんなに考えなくてもいいですよ」と軽く言えることではないからです。

Mさんが悩んでいるのは、犬や猫への愛情が薄いからではありません。

むしろ、大切に思っているからこそ、簡単に決められないのです。

その誠実さがあるからこそ、心の中で「もう迎えない」と「本当は一緒にいたい」がぶつかっていたのだと思います。

「看取りたくなかった」という本音が出てくることもある

Mさんのお話の中で、とても大切だと感じたのは、「本音は看取りたくなかった」という気持ちでした。

ペットと暮らしていると、いつか別れが来ることは頭ではわかっています。

犬や猫は、人よりも先に旅立つことが多い。

だから、飼い主が見送ることになる。

そう理解していても、実際にその時間を迎えるのは本当に苦しいことです。

長く一緒に暮らしてきた子が弱っていく姿を見ること。

できることが少しずつ減っていくのを感じること。

最期の時間が近づいているとわかっていても、受け入れきれないこと。

それでも、そばにいること。

Mさんは、そうした時間を何度も経験されてきました。

飼い主として最後まで見届けることは、とても大切な責任です。

でも、責任だからつらくないわけではありません。

愛しているからこそ、看取りは苦しい。

大切だからこそ、別れたくなかった。

「看取りたくなかった」と思うことは、決して冷たいことではありません。

むしろ、それだけ一緒にいたかったという気持ちの表れなのだと思います。

Mさんは、頭では「仕方ない」と思っていました。

でも心の奥には、もうこれ以上、見送る悲しみを味わいたくないという思いがあったのかもしれません。

その気持ちは、簡単に言葉にしにくいものです。

「飼い主なのに、そんなことを思っていいのかな」と感じてしまう方もいるかもしれません。

でも、私はその本音も大切にしたいと思いました。

きれいな言葉だけで悲しみを包まなくてもいいのです。

「ありがとう」と思う気持ちもある。

「出会えてよかった」と思う気持ちもある。

それと同時に、「もっと一緒にいたかった」「看取りたくなかった」と思ってもいい。

そのどれもが、Mさんの愛情の中にある自然な気持ちなのだと思います。

虚しさは、愛した時間がなくなったから出てくるものではない

Mさんが口にされた「なんだか虚しいです」という言葉は、とても静かで、でも重みのある言葉でした。

ペットロスの悲しみというと、涙が止まらない、思い出すと苦しい、会いたくてたまらない、という形を想像する方も多いかもしれません。

もちろん、そうした悲しみもあります。

でも、Mさんの中にあったのは、それだけではありませんでした。

長年、犬や猫と暮らしてきた日々。

何匹も看取ってきた時間。

そして、これからはもうお迎えしないかもしれないという現実。

そのすべてが重なったとき、ただ悲しいだけではなく、ぽっかり空いてしまったような虚しさが出てきたのだと思います。

虚しさは、「何もなかった」という意味ではありません。

むしろ、そこにたくさんの時間があったからこそ生まれるものです。

ごはんをあげる時間。

体調を気にする時間。

名前を呼ぶ時間。

そばにいる気配を感じる時間。

そうした日々が急になくなると、生活の中に大きな余白ができます。

その余白に、心がまだ慣れていないのだと思います。

Mさんにとって犬や猫との暮らしは、単なる世話ではありませんでした。

日常そのものであり、心の支えであり、生きるリズムの一部だったのだと思います。

だから、その存在がいなくなったとき、生活の形だけでなく、心の置き場所まで変わってしまうことがあります。

私は、Mさんの虚しさを無理に前向きな言葉で埋めようとは思いませんでした。

「また楽しいことを見つけましょう」と急いで言うよりも、まずはその虚しさがあることを一緒に受け止める時間が必要だと感じました。

虚しいと感じるのは、弱いからではありません。

愛した時間が深かったからです。

そして、これからの暮らしを思ったときに、まだ心が戸惑っているからです。

悲しみも、虚しさも、急いで片づけなくて大丈夫です。

Mさんが大切にしてきた時間は、消えたわけではありません。

今はただ、その大きさに心が追いつこうとしている途中なのだと思います。

悲しみを消そうとせず、虚しさの奥にある本音をそのまま受け止める

Mさんは、「もう飼えないのは仕方ない」と頭ではわかっていました。

自分の年齢や体力を考えれば、新しく犬や猫を迎えることは簡単ではありません。

迎えた以上、最後まで見届けることが飼い主の役目。

その責任を、Mさんは誰よりもよくわかっていました。

けれど、わかっているからこそ、苦しさも深くなっていたのだと思います。

「仕方ない」と何度も自分に言い聞かせても、心の中には「本当はずっと一緒に暮らしていたい」という思いが残ります。

そして、その奥には「もう看取りたくなかった」という本音もありました。

この本音は、なかなか人には言いづらいものかもしれません。

飼い主として最後まで見届けるのは当然。

大切な子だからこそ、そばにいるべき。

そう思うほど、「看取りたくなかった」という言葉は、自分勝手なもののように感じてしまうことがあります。

でも、私はそうは思いません。

看取りたくなかったのは、責任から逃げたいからではなく、もっと一緒にいたかったから。

もう失う痛みを味わいたくないほど、大切に思っていたから。

Mさんの「なんだか虚しいです」という言葉の中には、そうした深い愛情と、何度も見送ってきた疲れのようなものが含まれていたように感じました。

私は、Mさんに何か具体的な提案をするのではなく、ただその場をご一緒し、気持ちに寄り添うことを大切にしました。

悲しみは、すぐに整理しなくてもいいものです。

虚しい気持ちも、無理に前向きな言葉で隠さなくていいものです。

今はただ、「悲しい」「虚しい」「本当は看取りたくなかった」という気持ちがあることを、そのまま認める時間が必要だったのだと思います。

「仕方ない」と思うほど、悲しみを閉じ込めてしまうことがある

Mさんは、愛犬を亡くした悲しみの中で、「もう飼えないのは仕方ない」と感じていました。

この言葉は、とても現実的な言葉です。

年齢や体力のことを考えると、新しく犬や猫を迎えることには慎重になります。

毎日の世話を続けられるか。

病院に連れて行けるか。

もし自分に何かあったとき、その子を最後まで守れるのか。

そうしたことを考えるのは、飼い主としてとても大切なことです。

Mさんが「仕方ない」と思った背景には、犬や猫を軽く考えたくない気持ちがありました。

命を迎えるということは、かわいい時間だけを受け取ることではありません。

最後まで責任を持つこと。

弱っていく姿も見守ること。

つらい別れも引き受けること。

Mさんは、その重みを何度も経験してきたからこそ、簡単に「また迎えたい」とは言えなかったのだと思います。

けれど、「仕方ない」と言い聞かせることで、悲しみまで閉じ込めてしまうことがあります。

本当は寂しい。

本当はまた一緒に暮らしたい。

本当は、こんなに静かな家にまだ慣れていない。

そんな気持ちがあっても、「仕方ない」と思うほど、口に出せなくなってしまうことがあります。

Mさんも、涙が出るほど悲しいのに、その悲しみをどこに置いたらいいのかわからなくなっていたのかもしれません。

私は、Mさんの「仕方ない」という言葉を否定するのではなく、その奥にある気持ちを一緒に見つめるようにお聴きしました。

仕方ないと思っていることと、悲しいことは別です。

現実を受け入れようとしているからといって、悲しみを我慢しなければいけないわけではありません。

むしろ、現実をよくわかっているからこそ、簡単には泣ききれないこともあります。

「仕方ない」と思いながらも、涙が出る。

それは矛盾ではなく、大切な存在を見送った人の自然な心の動きなのだと思います。

看取りたくなかった本音も、愛情の一部として置いていい

Mさんのお話の中で、とても大切だったのは、「本音は看取りたくなかった」という気づきでした。

ペットと暮らす以上、いつか別れが来ることは多くの方がわかっています。

犬や猫は、人よりも短い時間を生きることが多い。

だから、飼い主が見送ることになる。

そのことを頭では理解していても、心が同じように納得できるわけではありません。

看取りの時間は、とても大きな負担になります。

弱っていく姿を見ること。

食べられなくなる様子を見守ること。

病院に通いながら、どこまで治療するのか考えること。

最期が近づいていると感じながら、それでもそばにいること。

どれも、言葉で簡単に表せるものではありません。

Mさんは、これまで何匹もの犬や猫を看取ってこられました。

そのたびに、きっとできる限りのことをしてこられたのだと思います。

でも、どれだけ大切に見送っても、別れがつらくなくなるわけではありません。

むしろ、大切にしてきたからこそ、見送るたびに心は深く傷つきます。

「看取りたくなかった」と感じるのは、飼い主として冷たいからではありません。

最後まで責任を果たしたくなかったという意味でもありません。

本当は、もっと一緒にいたかった。

元気なまま、そばにいてほしかった。

別れの時間など来てほしくなかった。

そういう気持ちがあるからこそ、出てくる言葉なのだと思います。

私は、その本音をきれいな言葉に変えなくてもいいと感じました。

「ありがとう」と思う気持ち。

「出会えてよかった」と思う気持ち。

「でも、看取りたくなかった」と思う気持ち。

それらは同時にあっていいものです。

どれか一つだけが本当の気持ちなのではありません。

Mさんが流してきた涙も、口にしにくかった本音も、すべて愛情の中にあるものです。

だからこそ、無理に隠さず、そのまま置いていいのだと思います。

虚しさを感じるのは、大切な存在が日常の一部だったから

Mさんが口にされた「なんだか虚しいです」という言葉は、とても静かな言葉でした。

怒りのように強く出るものではなく、涙のようにあふれるものでもなく、胸の奥にぽっかり残るような言葉です。

ペットロスというと、悲しみや寂しさを思い浮かべる方が多いかもしれません。

もちろん、悲しみも寂しさもあります。

でも、長年犬や猫と暮らしてきた方にとっては、それだけではありません。

毎日の生活そのものが変わってしまいます。

朝起きて、ごはんを用意する。

体調を気にかける。

散歩の時間を考える。

帰宅したときに声をかける。

名前を呼ぶ。

寝る前に様子を見る。

そうした一つひとつが、暮らしのリズムになっていたのだと思います。

その存在がいなくなると、時間だけが空いてしまうことがあります。

やることが減ったはずなのに、楽になったとは感じられない。

むしろ、何をしていいのかわからない。

家の中が静かすぎる。

いつもいた場所を見てしまう。

そんな日々の中で、虚しさが出てくることがあります。

Mさんにとって、犬や猫は「飼っていた存在」ではなく、一緒に日常を作ってきた存在でした。

だから、その子たちがいなくなったあと、生活の中に空白ができるのは自然なことです。

虚しさは、愛した時間がなかったから出てくるものではありません。

むしろ、たくさん愛して、たくさん世話をして、たくさん一緒に過ごしてきたからこそ出てくるものだと思います。

私は、Mさんの虚しさを何かで埋めようとはしませんでした。

無理に趣味をすすめたり、新しい楽しみを探すように促したりすることはしませんでした。

今のMさんに必要だったのは、虚しさを消すことではなく、虚しさがあるままでも、その気持ちを否定されずにいられる時間だったのだと思います。

「なんだか虚しいです」

そう言葉にできたこと自体が、Mさんにとって大切な一歩だったのかもしれません。

悲しみも虚しさも、すぐに形を変えなくて大丈夫です。

大切な存在が日常の中に深くいたからこそ、心はまだその不在に慣れていないのだと思います。

悲しみも虚しさも我慢せず、大切な存在を想い続けていい

Mさんとの時間の中で、何か大きな変化がすぐに起きたわけではありません。

涙が止まったわけでも、虚しさが消えたわけでもありません。

けれど、私はそれでいいのだと思っています。

ペットロスの悲しみは、誰かに話したからといって、急になくなるものではありません。

まして、長年一緒に暮らしてきた犬や猫を、何匹も看取ってこられたMさんにとって、その悲しみは人生の大切な時間と深く結びついているものでした。

昨年、そして今年と連続で愛犬を亡くしたこと。

年々、ペットロスがつらく感じられるようになったこと。

自分の年齢や体力を考えると、もう犬や猫をお迎えするのはやめようと思っていること。

それでも本当は、ずっと一緒に犬や猫と暮らしていたいこと。

そのどれもが、Mさんの中にある本当の気持ちでした。

私は、Mさんに何かを提案するのではなく、ただただその場をご一緒し、気持ちに寄り添うことを大切にしました。

悲しみは、我慢しなくていいものです。

虚しい気持ちがあってもいいものです。

「看取りたくなかった」と思うことも、「もっと一緒にいたかった」と感じることも、飼い主としての愛情と矛盾するものではありません。

大切な存在を失ったあと、心がすぐに日常へ戻れないのは自然なことです。

Mさんが持ち帰ったのは、悲しみを消す方法ではありませんでした。

悲しみがあるままでもいい。

虚しさを抱えたままでもいい。

それでも、その子たちを大切に想い続けていい。

そんな静かな安心だったのだと思います。

悲しみを早く乗り越えようとしなくてもいい

ペットを亡くしたあと、「早く元気にならなきゃ」と思ってしまう方は少なくありません。

周りに心配をかけたくない。

いつまでも泣いていたらいけない気がする。

もう十分に悲しんだのだから、そろそろ前を向かなければいけない。

そんなふうに、自分に言い聞かせてしまうことがあります。

でも、悲しみには期限がありません。

何日たったから大丈夫。

何か月過ぎたから忘れられる。

何年たったから平気になる。

そういうものではないのだと思います。

Mさんも、これまで何匹もの犬や猫を看取ってこられました。

毎回のお別れは悲しかった。

それでも、昨年、そして今年と連続で愛犬を亡くしたことで、これまで以上につらさを感じるようになりました。

「何度も経験しているから慣れているはず」と思われることもあるかもしれません。

でも、別れは何度経験しても慣れるものではありません。

むしろ、そのたびに愛した時間の重さを感じるものです。

悲しみが深いのは、弱いからではありません。

それだけ大切に暮らしてきたからです。

一緒に過ごした時間があったからこそ、いなくなったあとの静けさが大きく感じられるのです。

私は、Mさんの悲しみに対して、「前向きになりましょう」と急ぐ必要はないと感じました。

今はまだ、涙が出るなら涙が出るままでいい。

思い出して胸が苦しくなるなら、それだけ大切だったのだと受け止めてもいい。

悲しみを早く終わらせようとしなくても大丈夫です。

大切な子を想う気持ちは、時間がたってもなくならなくていいものです。

悲しみは、愛情が消えない証でもあります。

だから、無理に乗り越えようとしなくてもいい。

少しずつ、少しずつ、その悲しみと一緒に暮らしていく形を見つけていければいいのだと思います。

虚しさがある自分を責めなくていい

Mさんが口にされた「なんだか虚しいです」という言葉には、深い寂しさがありました。

ペットロスというと、「悲しい」「会いたい」「涙が出る」という言葉が浮かびやすいかもしれません。

でも、大切な存在を失ったあとの気持ちは、それだけではありません。

何をしていても満たされない。

家の中が静かすぎる。

やることが減ったはずなのに、楽になった感じがしない。

ぽっかり穴が空いたようで、気力がわかない。

そんな虚しさが出てくることもあります。

Mさんにとって、犬や猫との暮らしは長い時間をかけて作られてきた日常でした。

ごはんを用意すること。

様子を見ること。

声をかけること。

体調を気にすること。

看取ること。

その一つひとつが、Mさんの生活の中に深く根づいていたのだと思います。

だから、その存在がいなくなったとき、ただ「寂しい」だけではなく、日常そのものが空いてしまったように感じたのかもしれません。

虚しさを感じると、「こんなふうに思ってはいけないのかな」と自分を責めてしまうことがあります。

見送った子たちに申し訳ないような気がする。

もっと感謝しなければいけないのに、虚しいと思ってしまう。

そんなふうに感じる方もいるかもしれません。

でも、虚しさがあることは、愛情がなかったという意味ではありません。

むしろ、それだけ大切な存在が日常の中心にいたということです。

Mさんが「虚しい」と感じたのは、犬や猫との時間が空っぽだったからではありません。

たくさん愛して、たくさん世話をして、たくさん見送ってきたからこそ、そのあとに大きな余白が残ったのです。

私は、Mさんにその虚しさを無理に消してほしいとは思いませんでした。

虚しいと感じる自分を責めなくていい。

今はまだ、心がその不在に慣れていないだけ。

そう受け止めていくことが、Mさんにとって必要な時間だったのだと思います。

大切な存在を想い続けることは、前に進めていないことではない

ペットを亡くしたあとも、ふとした瞬間に思い出すことがあります。

似た犬を見かけたとき。

散歩していた道を通ったとき。

使っていた食器や首輪を目にしたとき。

名前を呼びそうになったとき。

そのたびに、胸がぎゅっとなることがあります。

それは、まだ前に進めていないからではありません。

大切な存在が、今も心の中にいるからです。

Mさんは、長年犬や猫と暮らし、何匹も看取ってこられました。

その時間は、亡くなったから終わりになるものではありません。

一緒に過ごした日々は、Mさんの中に残り続けています。

だから、これから先も思い出していいのだと思います。

涙が出てもいい。

寂しくなってもいい。

「本当はもっと一緒にいたかった」と思ってもいい。

それは、立ち止まっているということではありません。

大切な存在を大切なまま、心の中に置いているということです。

Mさんは、自分の年齢や体力を考えて、もう犬や猫をお迎えするのはやめようと思っていました。

それは、犬や猫への愛情がなくなったからではありません。

むしろ、命を迎えることの重みをよく知っているからこその選択でした。

もう迎えないと決めても、これまで一緒に暮らした子たちを想い続けていい。

本当はずっと一緒に暮らしていたかったという気持ちも、大切にしていい。

私は、Mさんがそのことを少しでも安心して感じられたらいいなと思いました。

悲しみを消すことだけが、前に進むことではありません。

虚しさをなくすことだけが、元気になることでもありません。

大切な存在を想いながら、今の自分の暮らしを少しずつ続けていく。

その歩みも、立派な前進なのだと思います。

Mさんの悲しみは、簡単には消えないかもしれません。

でも、その悲しみの中には、確かに愛情があります。

だからこそ、無理に忘れようとしなくていい。

これからも、その子たちを想い続けながら、自分の心にやさしくしていければいいのだと思います。

ペットロスの悲しみは、我慢しなくて大丈夫です

犬や猫との別れは、何度経験しても慣れるものではありません。

「もう十分悲しんだはず」
「年齢を考えたら、もう迎えない方がいい」
「仕方ないことだから、前を向かなきゃ」

そんなふうに自分へ言い聞かせても、涙が出たり、虚しさが残ったりすることはあります。

大切な存在だったからこそ、すぐに気持ちを切り替えられないのは自然なことです。

「本当はもっと一緒にいたかった」
「看取りたくなかった」
「なんだか虚しい」

そう感じることも、飼い主としての愛情と矛盾しません。

悲しみを消すことだけが、前に進むことではありません。

大切な子を想いながら、今の自分の気持ちを少しずつ言葉にしていくことも、心をいたわる大切な時間です。

もし今、ペットロスの悲しみや虚しさをひとりで抱えているなら、一度その気持ちを話してみませんか。

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うまく話そうとしなくても大丈夫です。

涙が出るままでも、言葉がまとまらないままでも、今の気持ちから始めていただけます。

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